ラブ・ライフハック

「自由な毎日を過ごし、幸せに生きる」二人のブログ

「モテない」自分磨き

「君、もう少し背丈があれば

めちゃくちゃモテただろうね。」

 

僕が今の彼女と出会う前、

本当によく言われた言葉だ。

 

確かに僕は背も高くなければ、

一般受けのいいイケメンでもない。

オシャレにも興味がない。

 

ただ、逆に言うと、背丈さえあれば

本当にモテたか、というと

それは甚だ疑問である。

 

というのも、僕は所謂

「モテるための自分磨き」を

一回もしたことがないからだ。

 

理由は大きく三つ。

 

一つ。そもそも高身長イケメンには

逆立ちしても敵わない、と

思っていたから。

 

僕は高身長でもなければ、

一般受けするような

キリっとした顔立ちでもない。

 

本物のイケメンには敵わないから、

そこにエネルギーを費やしても

仕方ないと思っていた。

 

二つ目は、最初にも言ったように

オシャレやファッションに

全く興味がなかったから。

 

よくtwitterFacebookInstagram

比較されるが、

 

僕はFacebook

海外ボランティアに行ったことを

報告することにも興味がなく、

 

Instagramでいいねを稼ぐ

インフルエンサータイプ

でもなかった。

 

それなら、少しでも面白いネタツイで

人を笑わせたいと思うタイプだった。

 

想像にたやすいと思うが、

ファッション誌や週刊誌は

ほとんど読んだことがない。

 

家族がファッションが好きで

買ってきてくれたことも何度かあるが

本当に興味がわかなかった。

 

それなら部屋の隅に置いてある

10年前のファミ通を読んだ方が

まだ有益に感じるレベルだった。

 

そして三つ目。

結婚や恋愛をすれば、

経済的自由から遠のくと思ったから。

 

一つ目と二つ目よりも、

正直圧倒的にこれが強い。

 

僕は、基本的にお金に対して

執着心が強い方だ。

 

そうなったきっかけは、

大学一年生の時に

 

誰もが知るベストセラー

『金持ち父さん貧乏父さん』

をたまたま読んだからだ。

 

あれを読んで以来、僕は日々

金持ちになるためにはどうすべきか、

いかにして経済的自由を手に入れるか

 

そればかり考えるようになった。

 

そこからは紆余曲折あった。

怪しい投資話や、情報商材など

道を踏み外しかけたこともあった。

 

その話はさておき。

 

そんなことを考えていたから、

当時、女性と付き合って結婚すると

経済的自由になれないと思っていた。

 

例えば、「お金をためて、

マイホームを買う前に

賃貸用不動産を購入したり、

 

車やブランド物を買う代わりに

株を買って配当金を得たい。

 

もっと言うと、将来起業して

自分の会社を持ちたい。」

 

そんなことばかり考えていたので、

同じ価値観の女性など

いるわけがない、と思っていたのだ。

 

事実、そんな風に思う女性は

一人としてみたことがなかった。

 

だから、もし結婚するとしても

経済的に自由になってからにしよう、

と、思っていた。

 

僕の考えていた幸せのためには、

モテるよりもお金持ちになる方が

優先順位が高かった。

 

だからサークルにも入らず、

オシャレなファッション雑誌も読まず、

もちろん合コンにもいかず、

 

バイトや勉強、読書、

ビジネス(と呼べるものではなかったが)

そして息抜きのゲーム。

 

そんなものにばかり

時間を費やしていた。

 

そうして僕は

独自路線まっしぐらに進んでいた。

 

しかし、類は友を呼ぶという。

しばらくして、同じように

独自路線まっしぐらな女性が現れた。

 

もちろん今の彼女だ。

 

彼女は僕の外見なんていざ知らず、

(こういうと、外見も好きだ、と

怒られてしまうが)、

 

中身や性格に一目ぼれした、

と言ってくれた。

 

もちろん価値観もあった。

何より、金銭面での考え方が

僕とドンピシャにあったのだ。

 

話せば話すほど、

僕も彼女にゾッコンになった。

 

初めてのデートの内容は、

Youtubeもぜひ見てほしいが

本当に衝撃的だった。

 

youtu.be

 

 

今思うと、当時僕は

「モテるための努力」

はしていなかったが、

 

「自分が幸せになるための努力」

を続けていたからこそ、

今の彼女に出会えたのだと思う。

 

自分磨き、という言葉がある。

 

それは「異性からモテるため」

に使われることが多い印象だ。

 

だが、本当の自分磨きは

「自分がなりたい幸せ」

のために努力することだと思う。

 

僕は、図らずも

モテるための努力を

ほとんどしていなかった。

 

その代わり、自分の幸せのために

試行錯誤していた。

 

結果として彼女に出会えた。

 

今では、

一般的にモテる風貌じゃなくてよかった

とさえ思っている。

 

もちろんイケメンを

否定するわけではない。

 

人は見た目が9割だといわれているし、

美男美女に越したことはないと思う。

 

だけど、パートナーがいる以上、

僕にとって「モテること」は

あまりにもリスクだ。

 

僕は彼女と二人で

幸せになれればそれでいい。

 

これからも、今度は自分だけの

幸せのためではなく、

 

二人の幸せのために、

二人の独自路線まっしぐらに

努力を続けていきたい。

 

苦い良薬、「これでいいのだ」

最近、彼女と漢方を飲みはじめた。

 

漢方薬局で診療してもらって、

オーダーメイドの漢方を処方してもらい、

毎日40分コトコト煮込む。

 

確か、漢方はポケモンのゲームでも

出てきたな、と不意に思い出す。

 

回復量は優秀だが、

好感度が下がってしまう

癖のあるアイテムだったと思う。

 

確かにあまりおいしいものではない。

与えられたポケモンたちの

好感度が下がるのも無理はないだろう。

 

そしてそのまずさに

比例するかのように

体は健康になっていく。

 

まさに、良薬は口に苦し。

 

彼女に強く勧められたので

興味本位で飲み始めたが、

 

もし彼女との関係がなかったら

間違いなく自分からは

手に取っていなかっただろう。

 

付き合ってから、彼女は僕に

いくつもの「苦い良薬」を

処方してくれた。

 

その中でも最も効き目があったのは、

 

「ヒロ君はどうしたいの?」

 

だった。

 

自分でいうのもなんだが、

僕は所謂「優しくていいやつ」

だったと思う。

 

他人を攻撃することもないし、

お願いや相談もよく聞いた。

 

他人の嫌がることも比較的

率先してやるタイプだった。

 

そして、何より

「誰かのためになること」に

強い満足感を得ていたのだ。

 

よく言えば利他的、献身的。

優しくて、親切な良い人。

 

困った他人を見かけたら

自分を犠牲にしてでも

助けたくなってしまうタイプだ。

 

だから、一番苦手だったのは

「自分の欲に正直になること」だった。

 

友達とご飯に行くときも、

相手の食べたいものを優先する。

 

遊びに行くときは、

自分のスケジュールを多少無理してでも

相手の都合のいい日に合わせる。

 

そういうタイプの人間だった。

 

もちろん、当時は

無理をしていた感覚などなかった。

 

僕は友達とどこに行こうが何をしようが、

その友達と過ごす時間が楽しかったし

(これは今でも変わらないが)、

 

そのために、自分のために

時間をとってくれることが嬉しかった。

 

だから、それ以外のこと、

スケジュールや場所なんて

正直、些細な問題であった。

 

だから、当時の僕の口癖は、

 

「俺は〇〇でいいや」

 

だった。 

 

誤解を招かないように説明すると、

この言い方には二つの意味がある。

 

「選択」と「妥協」だ。

 

具体的に言うと、

 

バカボンのパパの「これでいいのだ」は

「選択」の方だ。

 

自分で主体的にそれを選び、

そして十分に満足している。

 

言い方を変えると、

「で」を「が」に置き換えられる。

 

若干ニュアンスは変わるが、

「これがいいのだ」でも

趣旨はそれていないだろう。

 

そして、もう一方。妥協だ。

 

「お昼ごはん、うどんとそばなら

どっちが食べたい?」

という質問に答えるとき。

 

本当はラーメンが食べたいが、

その場にはうどんとそばしかない。

 

そんな状況で、仕方なく選ぶときに使う。

「俺はうどんでいいや」と。

 

それは主体的な選択というよりは、

限られた選択肢のうち

 

最も「まし」なものを

選んでいるに過ぎない。

 

もちろん、僕の口癖は後者だ。

全て、「妥協」してきた人間だった。

 

大学も、バイトも、そして就職も。

自分がどこに行って、

何をしたいかではなく、

 

「周りの期待する選択肢」の中で

「最もましなもの」を見つけて

選んできた人生だった。

 

けれど、彼女はそんな僕の考えを

その些細な口癖から見破った。

 

「ヒロ君は〇〇でいいや、

 ってよく言うね。」

 

最初に言われたとき、

初めて気が付いた。

 

それからというもの、

彼女はことあるごとに

 

「ヒロ君はどうしたいの?」

 

と聞いてくれるようになった。

彼女は僕がどうしたいか聞くとき、

加えてこう言っていた。

 

「ヒロ君、ヒロ君は自由だよ。

あなたの好きに行動していいの。」

 

最初は彼女のいう言葉の意味を

あまりわかっていなかった。

 

分からないなりに

行動に移してみよう、と

 

「〇〇でいいや、じゃなくって

 〇〇がいい、って言ってみる」

 

ことにした。

 

そんな時、運命か宿命か。

 

会社でトラブルが相次ぎ、

僕は会社に行くのが

本当に憂鬱になってしまった。

 

毎朝起きると体が重く、

そして毎晩帰ると

会社に行きたくないと泣いた。

 

だが、朝になると

また準備をして会社に行く。

 

そんな毎日が続いた。

 

ふと、気が付いてしまった。

 

「俺は、ここに居たくてここに居るのか?

 それとも、誰かのために居るのか?」

 

もちろん、毎日彼女に相談していた。

 

彼女はそんな僕の弱音を

一つ一つ、優しく受け入れてくれた。

 

そんなとき、ふと出た言葉がある。

 

「俺がこの会社を今やめてしまうと、

 ハルにも迷惑がかかるかもしれない」

 

そんなことを言ってしまった。

慰められるかと思ったのかもしれない。

 

だけど、ここで返ってきたのは

「苦い良薬」だった。

 

「私を言い訳にしないで。」

 

僕は気が付いた。

彼女を言い訳に、自分の気持ちを

ないがしろにしているのではないかと。

 

そして芋づる式に気が付いた。

 

僕は他人を言い訳に、

他人の期待を言い訳に

今まで選択をしてきたのだ、と。

 

それからというもの、

本当は自分がどうしたいのか

何度も何度も考えた。

 

「これは自分のしたいことか?

 それとも誰かの期待に

 こたえようとしているだけか?」

 

毎日自分に問いかけた。

 

そして、次第に

「ヒロ君はどうしたいの?」

と聞かれることはなくなっていった。

 

僕が勝手に好きなことを

するようになったからだ。

 

今では、もしラーメンが食べたいときに

「そばがいい?うどんがいい?」

と聞かれても、

 

「ラーメンが食べたいから

 ちょっと買ってくるわ!」

 

と、答えることができる。

…多分、めんどくさくて

結局うどんを食べるだろうが。

 

そして、僕は今、自ら選んで

彼女と過ごしている。

 

僕にとって誰よりもかけがえのない

大切なパートナー。

 

一生、できれば天国でも、

そして来世になっても

この先ずっと大切にしたいと思う。

 

それは妥協でも、

限られた選択肢の一つでもない。

 

僕が選ぶ、最善の選択。

最善の「これでいいのだ」。

「人を好きになることに理由なんていらない」と言うけれど

僕は彼女を世界一愛している。

 

これは毎日、本人にも伝えているし、

実際そうだと胸を張って言える。

 

何か裏付けとなる

データがあるわけじゃないが。

 

そんな細かいことはさておき、

彼女もそういってくれるから、

僕は本当に幸せだと思う。

 

周りから見ていても、

その様子はよく伝わるらしい。

 

実際に公言しているから、

というのももちろんであるが、

 

二人でいるところを見ていると

そんな話題にならなくても、

言葉にせずとも伝わってくるそうだ。

 

だから、よくこんなことを聞かれる。

 

「ヒロはなんでそんなに彼女が好きなの?」

 

別にそんな変な質問ではない。

これを聞かれて怒る人もいないだろう。

 

だが実は、この質問は僕にとって

かなり回答に困る質問だ。

 

というのも、理由は二つある。

 

まず大前提として、

この質問は、基本的に

二つの意味を内包していると思っている。

 

具体的に言うと、

 

①何が/どこが(What)そんなに好きなのか

②なぜ(Why)そんなに好きなのか

 

の二種類が内在している。

 

そして結論から言うと、

そのどちらも、答えるのが難しい。

 

①の場合、単純に多すぎるのだ。

好きな所なんて無限に思いつく。

 

顔もスタイルも声も好きだし、

価値観や考え方、書く文章、

教育観やお金との接し方。

 

話始めるときりがなくなってしまう。

 

この辺はYoutube

少しずつ話しているが、

 

とにもかくにもネタが尽きないほど

彼女の好きな部分は多いのだ。

 

だから、安易に聞かれても困る。

それだけで一日どころか

一生分を使い切れてしまう。

 

それに、そんな魅力的な部分を

相手に伝えて、もし彼女に

変な気を起こされてしまっても困る。

 

だから、答えるのが難しい。

 

そして、もう一つ。

 

②なぜ(Why)そんなに好きなのか

 

仮にこれが、対象が彼女ではなく

僕の大好きな食べ物であっても

答えることができない。

 

逆に、大嫌いな食べ物であっても

答えられないと感じている。

 

例えば、僕はそうめんが好きだ。

 

用意する手間も少ないていいし、

具材が少なくてつゆだけでも、

生姜やネギの薬味があってもいい。

 

熱い夏は冷やしてちゅるっと、

寒くなったらにゅう麺として

お味噌汁に入れてもおいしい。

 

一見好きな理由に見えるかもしれないが、

これらはどこが好きか(What)であって

なぜ好きか(Why)ではない。

 

言い方を変えるならば、

好きな特徴を挙げているだけに過ぎない。

 

だから、もしWhyの方で

「なぜそんなに好きなのか」

と聞かれても、困ってしまう。

 

そもそも、好き嫌いの感情に

理由などないと思っている。

 

というより、理由がないからこそ

好き嫌いに価値があると考えている。

 

もし、「どこが好きか(what)」が

理由になるとするならば、

 

その「好きなもの」は

代替がきくということではないか。

 

その人の顔やスタイルが好きならば、

もっと好みの顔やスタイルの相手が

この先出てくる可能性もある。

 

価値観や考え方が好きならば、

自分の価値観や考え方が変われば

違う人が好きになるだろう。

 

もちろんそのこと自体は否定しない。

恋愛は自由であっていいと思う。

 

だけど、僕の場合は

彼女の存在を愛してやまない。

 

彼女の手料理は好きだけど、

別に作ってくれなくても構わない。

 

彼女の教育観が好きだけど、

この先何かのきっかけで変わるかもしれない。

それも別に構わない。

 

僕は彼女が生きてくれているだけでいい。

そこに理由などあろうはずもない、

というのが僕の持論だ。

パターン化された愛情表現と、愛の習慣

朝目を覚まし、シャワーを浴び

歯を磨いて、髪にジェルを付ける。

 

人間の一日の行動の半分以上は

考えずとも、無意識に体が

やってくれているんじゃないかと思う。

 

それを習慣、と呼ぶのだろう。

 

日常生活における習慣作りが

重要視されているのも納得だ。

 

そんなことを考えながら

眠りにつこうと寝床に入り

「おやすみ」のキスをしたとき。

 

ふと気が付いてしまった。

 

僕たちには

「決まったパターンのやり取り」が多い。

 

阿吽の呼吸、つうと言えばかあ、

目が合ったらポケモンバトル。

 

誰かが決めたわけでも、

法律で定められたわけでもないのに

 

二人の間で、暗黙の了解で決まっている

「コミュニケーションの型」が多いのだ。

 

特に、愛情表現の種類が多い。

それもとんでもなく多い。

 

「愛の習慣」とでも言おうか。

 

朝起きて、仕事の支度をして

家を出るまでの30分の中にも、

すでに10個以上ある。

 

例えば、髭剃りをしたとき。

 

髭剃りのチェックは、

彼女の目視だけではなく

必ず彼女と頬ずりする。

 

「今日もしゅべしゅべ!」

というお墨付きをもらって、

ようやく僕の髭剃りは完了する。

 

用意もあらかた終わって、

今日も一日頑張るぞ!

と気合を入れるときは、

 

「えいえい?」と聞くと

「おー!」の代わりに

「好き~!!」と返ってくる。

 

そして出勤時。

 

玄関までのお見送りと、

いってらっしゃいのキスがあるのは

大前提として(この時点で相当嬉しい)、

 

玄関までの移動は、

僕が彼女を後ろから抱きしめながら

ムカデ競争のように歩いていく。

 

僕たちはこれを

「好き好きトレイン」

と呼んでいる。

 

これでもわずか一部、かつ

かなり控えめなほうだ。

 

とにもかくにも、僕たちには

「パターン化された愛情表現」

が非常に多い。

 

当然、義務ではないので、

「しなければならない」

と思っているわけではない。

 

習慣として身についている、

といったほうが近しい。

 

寝る前の歯磨きや、

トイレの後の手洗いのように

自然と体が動いているのだ。

 

もっと素敵な表現をするならば、

意識せずとも、考えずとも

愛を伝えあっているということだ。

 

昔、国語の授業だっただろうか。

同じような文を読んだ記憶がある。

 

たしかあれは発達障害を持つ子供との

コミュニケーションの話だったと思う。

 

本のタイトルも作者も覚えておらず、

内容もあいまいではあるが、

 

発達障害の子供に 

「鶏肉のヘリコプターに乗るとどうなるの?」

と聞かれると、

 

「そんなものに乗ったら、

油でべとべとになっちゃうよ」

 

と返すやり取りを一日に何度もする、

そしてするたびに子供が安心そうに、

満足そうにする…

 

という話だったと思う。

 

そのエピソードから、作者は

言葉のやり取りには、意図や考えの

伝達機能があるのはもちろんだが、

 

「言葉のやり取りそのもの」により

安心感を持つことができる機能が

あるのではないかと思っている

 

といった内容だった(はず)。

 

問題自体は難しく、ほぼ全問不正解で

怒りのあまり発狂して

全裸でブレイクダンスをする寸前だったが。

 

だが、それに近しいものを感じる。

 

僕たちの「愛の習慣」も

一つ一つのやりとりの中身は

もちろんのこと、

 

「やりとりをすること」そのものにも

喜びを感じているのだろう。

 

やり取りの中身で愛を感じ、

そして「やりとりをすること」

そのものにも愛を感じる。

 

愛の習慣を繰り返すことで、 

日々、お互いの愛情を

強く大きくしている。

 

定型化されたパターンのやり取りは

一見味気なく見えるかもしれない。

 

だけど、少なくとも僕たち二人は

その数多くあるパターンのやり取りで

愛を確かめ合い、伝えあっている。

 

毎日毎日、たくさんの方法で、

何度も愛のやり取りをしている。

それも、無意識のうちに、だ。

 

愛情表現の方法は、

キスやセックスだけじゃない。

 

「好き」「愛してる」と

言葉で伝えることだけでもない。

 

二人だけにしかわからない、

そして二人しか理解できない、

そんな愛情表現があるはずだ。

 

生まれては消えたり、

自分たちの中のブームもある。

 

それもまた面白いと思っている。

 

僕はこの、あふれ出てくる

僕たち二人だけの「愛の習慣」を

この先も大切にしたいと思う。

 

 

僕は恋バナができなくて、フシギバナが倒せない。

どうも昔から、

僕は「恋バナ」が苦手だ。

 

昔は、恋人のいる友達が

どこか羨ましかったからだと思う。

 

僕はあまりモテるほうではなかった。

 

彼女に言うといつも自覚が足りないと

怒られてしまうのだけれど、

正直実感がないのが本音だ。

 

高校~大学という一番お盛んな時期、

僕には彼女がいない期間が長かった。

 

手をつないで楽しそうに

デートするカップルを横目に、

勉強やバイトに明け暮れる日々だった。

 

イケメン高身長な友達や

同じ部活のエースの友達や

コミュ力バツグンの友達の

 

やれ誰かから告白されただの、

やれ彼女と旅行に行っただの、

やれ誰かとセックスしただの、

 

そういう自慢交じりの話を聞くたびに、

コンプレックスが刺激されたのだろう。

 

あまりいい気分になった記憶がない。

 

あとは単純に、

見知らぬ他人の恋愛は

興味がなかったというのもある。

 

話している本人の話ならまだしも、

 

芸能人の不倫だの、誰かの浮気だの、

隣のクラスの誰と誰が付き合っただの、

全くもって興味がなかった。

 

別にそういうことが好きな人を

否定するつもりはさらさらない。

これは単なる価値観の問題だ。

 

僕の場合は、単純に

知らない人の恋バナを聞いたところで

驚くほど興味がわかないだけだ。

 

それならフシギバナの話のほうが

100倍面白いし興味がある。

 

対戦で出てきたらゲンナリして

一日三食しか食べられなくなるほど

相手にするのは苦手だったが。

 

今は僕にもパートナーができて、

そんな話を聞いて羨むことはなくなった。

 

インドアなので旅行にはいかないが、

セックスだってそれなりにするし

何より幸せに暮らしている。

 

だけど、今も恋バナは好きではない。

別の理由で恋バナが苦手になった。

 

他人から羨まれることが多くなったからだ。

 

確かに、僕たち二人は仲良しで、

本当に今が一番幸せだと思っている。

 

付き合って二年半を過ぎたが、

倦怠期など一度も感じたことがない。

何なら、今が一番ラブラブだ。

 

だけど、僕たち二人は、

二人で幸せになるために

生半可ではない努力をしてきた。

 

苦労自慢をしたいわけではないが、

そこらの夫婦よりもよっぽど

お互いと向き合ってきたつもりだ。

 

二人の理想に近づくために、

二人の価値観を確かめ合うために、

何度も何度も話し合った。

 

お互いの好きな所を

ただ伝えあっていただけではない。

 

お互いの嫌な部分や、

変えてほしい部分も、

いくつも伝えあってきた。

 

時には辛い思いをさせて

彼女に涙を流させたことも、

 

逆に彼女に涙を見せたことも、

何度も何度もあった。

 

話し合うだけじゃなく、

行動にももちろん移した。

 

女の子の連絡先を全部消したり、

SNSをすべて消したり、

できることはすべてやってきた。

 

そうして二人で築き上げて

今の二人の関係がある。

 

だから、単に羨まれても困るのだ。

 

どうしたらいいか聞かれても、

やってきたことを伝えると

 

「私たちにはできない」

「それはあなたたちだからできた」

「そんな相手がいて羨ましい」

 

と言われて終わってしまう。

別に羨んでほしいなんて思ってないのに。

 

羨まれて喜ぶ人もいるかもしれない。

インスタでラブラブ写真を載せて、

 

「〇〇カップル、マジで

 いつもラブラブで羨ましい」

 

「私も▲▲と××みたいな

カップルになりたい…」

 

というコメントを見て、

承認欲求がギュンギュンに

満たされる人もいるだろう。

 

それもそれで一つの価値観だ。

僕たちは、それに興味がないだけだ。

 

ただ、二人で幸せになることだけを

人生の目標に置いている。

 

自分たち二人の幸せが何か?

そのために何が必要か?

だから今、何をするのか?

 

毎日毎日考えては話し合い、

そして実践して振り返る。

 

特に特別なことはしていない。

毎日地道に努力しているだけだ。

 

だから今日も、僕は恋バナができない。

 

明日も明後日もできないだろう。

 

それでいいとも思っている。

 

そして、今日も僕はフシギバナが倒せない。

誰か教えてください。

「電柱が立っているのはあなたのせい」な訳がない

「原因自分論」「自己責任論」

最近、SNSでもよく見かけるようになった。

 

いい時代だな、と心底感じる。

 

今までは「七つの習慣」のような

自己啓発本でしか知りえなかったこの考え方が

簡単にSNSで知ることができるのだから。

 

もちろん本質は理解できないにしろ、

そのような素敵な考え方を知る

きっかけを持てるだけでも十分だと思う。

 

ただ、危険な一面もある。

中途半端に理解された原因自分論は

何よりも自分を殺すナイフになりうる。

 

事実、僕は「中途半端な原因自分論」に

殺されかけた人間だから、よくわかる。

 

僕は昔、情報商材ネットワークビジネス

足を踏み入れかけていたことがある。

 

もちろんセミナーにも足を運んでいた。

セミナーでは、所謂「意識高い系」が

いかにも好きそうな内容の物も多かった。

 

人間の深層心理や「成功」哲学、

「成功者」の「マインドセット

などなど…

 

その中には、原因自分論や

自己責任論のセミナーもあった。

 

そのセミナーの冒頭では、

こんなことを問いかけられた。

 

「世の中の出来事すべてが

自分のせいだと思えるか?

 

極端な話をしよう。

電柱がここに建っているのが

自分のせいだと思えるか?

 

これこそが自己責任論だ!」

 

…と。

 

今思ってもなかなかなパワーワードだ。

 

だが、青二才どころか

青零才だった当時の僕は、

目をキラキラさせてうなずいていた。

 

そこでは、こう考えていた。

 

「そうか、世の中の全ての出来事は

『自分が原因』で起きているんだ…!」

 

「電柱が立っていることも、突き詰めれば

『自分に責任がある』んだ…!」

 

「よし、これからは身の回りで起きる事象は

自分に責任があり、自分が原因だと考えるぞ!」

 

と、意気込んでいた。

 

一見、原因自分論や自己責任論を

理解しているようにも見える。

 

文字通り、「原因や責任は自分にある」

と考えているからだ。

 

そして、この考え、

いや、この「誤解」こそが

最も自分を殺しかねないナイフだ。

 

なぜなら、この考え方は単に

 

「自分の責任である」

「自分に原因がある」

 

と、自分を責めるだけになり、

自己肯定感が下がってしまい、

ひいては自分を傷つける可能性が高いからだ。

 

僕も例外ではなった。

 

この考え方をしていた時は、

何か都合の悪いことが起きると

 

「すべて自分のせいだ…」

「自分に責任があるんだ…」

「自分に矢印を向けなきゃ…」

 

と、とにかく自分に責任があると

自分に言い聞かせ、

そして自分を責めた。

 

今となっては、当時の僕は

原因自分論を勘違いしている

典型的なパターンだと考えている。

 

これはあくまで持論だが、

原因自分論や自己責任論は、

 

「すでに終わってしまった事実」

に対して自分が原因である、あるいは、

自分の責任である、と思うことではない。

 

「目の前にある出来事に対して、

自分はどのような選択をとり、行動するか」

を考えることだと僕は思う。

 

先ほどの極端な例でいうならば、

 

「ここに電柱が立っている」

 

という「事実」に対して、

 

「この電柱は、自分たちが電気を使って

生活するためにここに立っている。

 

この電柱が通行の邪魔になっている。

これはここに住んでいる

僕たちのせいだ…」

 

と思うことは、

原因自分論でも自己責任論でもない。

 

「ここに電柱があるけど、

明らかに通行の邪魔になっている。

 

どこかに掛け合えば移動してもらえるかな?

一度調べてみよう。」

 

と考え、行動することが

原因自分論・自己責任論だ。

 

…極端な例になってしまって

かえってわかりにくくなってしまった。

もう少しわかりやすくします。

 

例えば、バイト先で

自分が教育係になっている後輩が

何か失敗をしたとしよう。

 

間違った自己責任論は、

 

「後輩がミスをしたのは俺のせいだ…」

 

と目の前の事実の原因ばかり考え、

そして自分を責め、落ち込むことだ。

 

正しい自己責任論は、

 

「後輩がミスをしてしまった。

この作業は確かに分かりにくいから、

共有のチェックリストを作ってみよう。」

 

と考え、行動することである。

 

つまり、

 

「現在から過去にベクトルが向いている

(今の事実の原因を探る)」

のは自己責任論ではなく、

 

「現在から未来にベクトルが向いている

(目の前の事実に対して、自ら選択し行動する)」

のが自己責任論だ。

 

「今、あなたの目の前に電柱が立っている」

 

ことがあなたの責任な訳がないのだ。

 

その電柱に対してどうアクションをとるか?

あるいは何もアクションをとらないのか?

 

未来に向けてその選択をすること、

そしてその選択に責任を持つこと。

 

これこそが正しい「自己責任論」だ、と

僕は考えている。

フリーザの法則

大学受験の数学において、

 

フリーザの法則」

 

という法則があることをご存じだろうか。

 

フリーザは、第一形態から最終形態まで

変身を三回することができる

(最近は金色になるので、四回になったが)。

 

第三形態までは見た目がごつくなっていくが、

最も強い最終形態は一番見た目がシンプルだ。

 

大学受験の数学でも似たようなことがある。

 

長い文章の問題が一番難しそうに見えて、

実は本当に厄介で難しいのはシンプルかつ

一文で終わっているような短い問題だ。

 

一例をあげるのであれば、

 

「tan1°は有理数か。(06 京都大(後期))」

 

などが有名だろうか。

 

このように、一件シンプルかつ簡潔な問題が

難易度が高い問題であることが多いことを

 

フリーザの法則」

 

と一部界隈では呼ぶ。

 

…なんて、昔予備校の先生から習った。

 

お気づきかもしれないが、

僕は世に言う高学歴エリートだ。

 

地元地区のトップ進学校に入学して、

日本でも指折りの大学に合格して、

だれもが知る企業に就職した。

 

世の中の人からは基本的に

「すごい」「立派」「勝ち組」

と言われる部類に入るだろう。

 

それが心地悪かったというとウソになる。

 

傲慢にならぬよう、調子に乗らぬよう、

謙遜しようと頑張っていても、

心のどこかに鼻高々な自分がいたことも事実だ。

 

話は戻るが、長い文章もそれなりに読めたし、

難しい問題も解けるほうだった。

 

初見では解けない問題も、

答えを見ればちゃんと全部理解できたし、

道筋さえわかれば次は簡単に解くことができた。

 

僕に解けないものはない。

と、思っていた時期もあったかもしれない。

 

でも、あるとき彼女から言われた

「たった一つのシンプルな問い」

に、答えられなかった。

 

自分を見失い、

どうしていいかわからなくなった

僕の目を見て、まっすぐ聞いてくれた

 

「あなたはどうしたいの?」

 

その一言に対する答えが、

見つからなかった。

 

当時の僕は、答えを外に探した。

 

どこかに落ちているのではないが、

探せばピンとくる答えが見つかるんじゃないか。

 

ひょんな出会いから、

次のやりたいことが見つかるんじゃないか。

 

誰かが自分のことを引っ張ってくれやしないか。

 

そう思い、外に出たり、人に聞いたりしてみた。

だけど、そんなものはどこにもなかった。

 

「俺はどうすればいいんだろう」

 

そう思い、ひたすら答えを探した。

いつも通り、どこかに答えがあると思っていた。

 

「自分が知らないだけの道筋」を見つければ、

「正しい答え」にたどり着けると思っていた。

 

言い方を変えれば、RPGなどでよくある

キーイベントがあると思っていたのだ。

 

重要人物や重要アイテム、メッセージが隠されており、

それが見つかれば次に進めると思っていた。

 

だけど、そんなものはなかった。

 

自分の人生に、決められた道や答えなんて

存在しなかったのだ。

 

それに気が付くまで、何か月もかかった。

何か月も藻掻き苦しんだ。

 

そして、気が付いた

 

今まで本当の意味で、

「自分がどうしたいか」

を自分自身に聞いたことがなかったことに。

 

今までの「自分はどうしたいか」は、

結局「誰に何と思われるか」ということだった。

 

親や友人、同僚、上司、そしてパートナーに

どういう思いをさせたいかで物事を判断していた。

 

親を安心させたい、上司にいい思いをさせたい、

パートナーに自分を好きでいてほしい。

 

他人の感情を優先した結果、

一番大切なのものが見えなくなった。

 

自分の心だ。

 

自分がどうしたいのか、自分はどう思いたいのか。

いつの間にか、考えることすらしなくなっていた。

 

僕はまず、言葉を変えることにした。

 

今まで、物事を決めるときは

 

「今日のお昼はラーメンでいい」

「お昼は何が食べたい?」

 

と、相手に委ねていたものを

 

「今日はラーメンが食べたい」

「お昼は〇〇が食べたいんだけど、どう?」

 

と、決定権が自分にある表現に変えた。

 

そんな些細なことではあるが、少しずつ

自分の心の声が聞こえるようになった。

 

自分の人生は、誰かに決められるものでも、

RPGのようにあらかじめ用意されているものでもない。

 

だけど、本当の意味で理解するのは難しい。

 

だから、僕は今でも毎日心に問う。

 

「これは僕のしたいことか?

それとも誰かが僕にしてほしいだけのことか?」

 

彼女が僕に放った「フリーザ」のおかげで、

一皮むけて「超サイヤ人」になれたのかもしれない。